2015年7月25日土曜日

赤ん坊の認識

赤ん坊の認識というのは、徐々に広がっていくものなのだな、と思う。

以前は、アウトオブ眼中、というか、視野に入っていなかったものが、だんだん視野に入ってくるというか、目の前のごく狭い範囲しか認識できていなかったのが、だんだん、認識の範囲が広がって、遠くまで目に入るようになったというか。最初は、懐中電灯の明かりが暗くて、周りしか見えていなかったのが、だんだん、明かりの照らす範囲が広がっていく、そんな感じ。たとえば、いまはまだ、ベッドの下まで認識が広がっていないから、入っていこうとしないけど、認識が広がると、入っていくんだろうな。ずりばいをはじめたころは、まだあんまり周りが見えていないな、と思っていたけど、最近は、やっぱり立てるようになってきてから、一気に人間らしくなってきたというか、いろんなことが分かってきたな、という感じがする。以前は、おもちゃに興味がなくて(というか視野に入らなくて)、日用品でばかり遊んでいたけど、最近は、おもちゃに向かって突進していくようになったし、自分から進んで、絵本を取りあげるようになった。認識、というか、少しずつ、意思が示せるようになったのが大きいんだと思う。指差しができるようになって、「ふん!」とあれが欲しい、これが欲しい、と言えるようになって、コミュニケーションの仕方を学びつつある。その代わり、意思表示をしてかなえられないと、大きな声を出して、肝癪を起こすけれど。腕立て伏せみたいな妙な格好をして、床に転がって、まさに地団太を踏む。

いまは、意思表示を学びつつあるのとともに、二者の関係についても学びつつあるらしい。
これまでは物を散らす一方だったのが、物を「入れる」ことがいまのブーム。一度引っ張り出したものを、またせっせと片付けたり、何かに何かを重ねてみたり。以前はできなかったコップ重ねが少しずつできている。こっちの方があっちよりも大きいとか、そういう関係性を学びつつあるようだ。ちょっと前までコップにコップ重ねられないねと思って見ていたのが(別に入れられなくてもいいんです、遊んでるだけだから)何かの拍子にかぽんと入ったりして、そういうときは「はっ!」とか声を出して、こっちを見てくるので面白い。子どもって、ひとりで遊んでるように見えても、なにかとこっちを見るよなあ。はいはいをして移動するときも、必ずふりかえる。あれは、こっちに「これをやってもいいですか」と許可を取ってるんだろうと、ぼくは勝手に思っているけど。でも「だめだめ」と怖い顔で制止しても、やりたければそのままする(笑)。コップかさねもそうだけど、それに限らず、最近はおもちゃでいろいろ遊べるようになってきて、少し前まではいわゆる大人の想定する遊び方をしなかった(できなかった)のが、最近どんどんできるようになっているので、これも成長だなあと感心する。まあ、おもちゃなんて、大人が「こうしなさい」と想定して作っているけど、そんなの無粋なことで、子どもは子どもで、自分の好きなように、勝手に遊んでくれればいいんだけど。でも、バリエーション豊かに、いろんなことができるようになるのはいいもんだよね。

それから、最近、ふと気付くと、あ、これ少し前までよくやっていたのに、最近やらないな、ということがたくさんある。そういえば、少し前まで、コンセントを引っ張るのに困ってたんだけどな、とか、そういえば、食器棚の食器を投げ散らして困ってたよな、とか(もちろん割れるのはどけて割れないのだけ)。食事中に食べ物を投げて困ってたよな、とか。そういえば、少し前まで、ものすごく部屋が散らかって困っていたのに、近頃は少しましになってきた。うちはわりかし、子どものしたいことは自由にさせている方だと思うのだが、そのときは「このままさせていて癖にならないだろうか」と一抹の不安があったりするが、意外とそんなこともなく、しないようになっていくもんだなあ。たぶん、子どももある程度、気の済むまでやったら、飽きるのだろうと思う。「これはもう終わった」みたいな。やりたいときがやりどき、やらせどきというのか、熱心にやりたがっているときというのは、その行動様式を学んでいる過程なんであろう、と思ってみている。行動の習得完了=飽きる、というわけで。

やりたいときがやりどきというのは、子どもだけの話でなくて、大人にも思うことで、やりたいときにそれを満足行くまでできないと、あとあとまで尾を引いたり、ゆがんだ形で出るというのは、よく経験することだ。だから赤ん坊に対しても、やりたがっているときに、できるだけ好きなようにやらせてあげるのがいいんじゃないかなあと、なんとなく思う。といってもすべてを思う存分、やらせてあげることはできないんだけどね。ぼくのステロイドが入っている袋なんかは、さわらせてあげられないし。そのあたりの線引きは、いまもってよくわからないし、試行錯誤しているところではある。