2015年6月23日火曜日

悲しい出来事 貧しい国日本

赤ん坊の誕生祝をもらった。

贈り物をいただくのはたいへん、ありがたいんだが、大半が、押すと「ががーぴぴー」と音が鳴るようなあんぱんマンのおもちゃで、ご丁寧に「赤ちゃん大好き!」なスマホのおもちゃまでついている。そりゃあ確かに赤ん坊はスマホが好きだが(例に違わずもちろんうちも)まだ1歳にもならないうちから、スマホのおもちゃはなかろう、とがっくりきてしまった。ぼくらはこれまで、「音の鳴るおもちゃ、光るおもちゃはいりませんから」と身内に口をすっぱくして回避してきたのに、ここにきてこれなのか。職場からの贈り物なので、身内のようにあれこれ注文をつけるわけにもいかないから、それはそれで仕方がない。とはいえ、逆に言えばこれがいまの日本の「普通」なのかと思うと、気持がぼんやりと暗くなる。まだ1歳にもならない子どもに、電子音や電気刺激をびかびかと与えることが「普通」であり、何の疑問も抱かない。まだ歩きもしないような赤ん坊に、音だの光だのあるいは砂糖だのを散々与えて、落ち着きがない、キーキー騒ぐ、と文句を言ったところで、赤ん坊の方こそ、そんな大量の覚醒物質を与えられて、文句を言われても困るだろう。「子どもはモンスター」みたいな言われ方をするけど、そのモンスターを作り出しているのは、大人のぼくたちなんだろう。

日本は貧しい国だ。
たくさんの物に囲まれて、みたいな言われ方をするが、大半が中国製品と石油物質で、がーがーぴーぴー音がしていないと心が満たされないのだとしたら。ぼくらはテレビがなくても音がなくても何も不自由しないのに、それの方が少数派だ。

ぼくらは子どもにいいもの(お金のかかったもの)を与え過ぎかなあと思っていたけど、半年後にはあっという間に壊れていそうなプラスチックのおもちゃをこうして目の前にすると、「子どもにこそいいものを与えよう」というスローガンは、それはそれで一種のコマーシャリズムだと抵抗を感じていたが、そのスローガンもあながち間違っていないように感じる。「どうせ一年後には使わないんだから」と使い捨てのおもちゃを与えるよりはまだましだ。親がそれなりの努力を払わないと、コマーシャリズムから子どもを守れない社会というのも悲しいものだが、いずれは世間の多すぎる刺激の荒波と戦っていかないといけないのだから、少なくとも三つになるまでは、親のぼくらが何もない世界を守ってあげたいものだ。